2025-06-30 21:42:47 配信

戦後80年企画「佐世保大空襲の記憶」… 無傷だった防空指揮所を取材

 29日、長崎県佐世保市で80年前に多くの市民が犠牲になった佐世保大空襲の献花式が行われ、犠牲者に黙祷(もくとう)が捧げられた。

 佐世保市では例年、死没者追悼式を行っていたが、高齢化や会員数減少によって遺族会が去年、解散することとなった。

 これを受けて式典の規模を縮小し、献花式を行うこととなった。

佐世保空襲犠牲者遺族会 臼井寛元会長(91)
「細々とでもですね、この式典を通じて、二度とこういう戦争を起こしてはいけないことを深く反省し、また伝えていきたいと思っております」

 太平洋戦争末期、日本国内ではアメリカ軍による本土空襲が激化していた。終戦までに全国約400以上の市町村が空襲の被害を受け、41万人以上の民間人が犠牲になったと言われている。

 長崎県の佐世保でも1945年6月28日深夜から翌29日未明にわって行われた佐世保大空襲だ。

 被災者は6万人を超え、うち死者1242人。そのほとんどが民間人だった。

 当時、帝国海軍の軍港があった佐世保。重要軍事拠点の佐世保鎮守府が置かれていたため、大規模な空襲に見舞われたと見られている。

 この空襲で鎮守府の建物などは焼失したが、地下壕にあった防空指揮所は無傷だったという。空襲に耐えた80年前の施設とはどのようなものなのか。

安西陽太記者
「きょうはよろしくお願いします」

海上自衛隊佐世保地方総監部 中村祐一広報推進室長
「よろしくお願いします」

 今回、テレビ朝日は中の様子を特別に取材させてもらった。

安西陽太記者
「こちらが地下壕の入り口ですか。壁が厚いですね」

海上自衛隊佐世保地方総監部 中村祐一広報推進室長
「はい。厚いところは2メートル近くあります」

 分厚い鉄の扉を通り抜け、階段を下っていくと。

海上自衛隊佐世保地方総監部 中村祐一広報推進室長
「こちらが地下防空指揮所の入り口です」

安西陽太記者
「失礼します。おー!広いですねー!」

海上自衛隊佐世保地方総監部 中村祐一広報推進室長
「はい。約1000平米あります」

 この防空指揮所は空襲を避けるため、地下に建設され、太平洋戦争中の1942年12月に完成したという。

 当時、ここには30から40人ほどが3交代で勤務していて、軍人だけでなく女学生もいて、電話対応などを行っていたという。

 戦後、不審火によって内装は焼失したが、堅牢な構造の地下壕は今なお残っている。

安西陽太記者
「あそことかすごい趣があるというか、その当時のままですか?」

海上自衛隊佐世保地方総監部 中村祐一広報推進室長
「その当時、この2本のモダンな柱がありますが、この柱と柱の間に当時の鎮守府長官が座られて正面の柱の間にスクリーンがございまして、そのスクリーンを見ながら、対空戦闘、防空指揮を執っていたといいます」

 この場所では様々な区域の情報室があり、その情報を統括してスクリーンに映し出し、状況を把握し指揮を執っていたという。

 この防空指揮所が作られた当時、部隊などを統率していたのが、1942年のミッドウェー海戦で、第一機動部隊を率いたことで知られる当時の南雲忠一海軍中将だ。

 さらに奥に進むと、当時としては画期的なものが…。

安西陽太記者
「おー!大きい!これは何ですか?」

海上自衛隊佐世保地方総監部 中村祐一広報推進室長
「これはですね、ここに漢字で除塵装置。いわゆる塵を取り除く装置、空気清浄機と言われています」

安西陽太記者
「え?空気清浄機?」

海上自衛隊佐世保地方総監部 中村祐一広報推進室長
「空気清浄機に加えて、ラジエーター等もついていますので、冷却機能もある、いわゆるクーラーですね」

安西陽太記者
「クーラーもあったんですか」

 この機械で冷たい空気を生み出し、ダクトを通して他の部屋に送ることで電子機器が熱を持つのを防いでいたという。

 また、当時では珍しく、トイレも水洗式だ。女性用や准士官以上と下士官で使用する場所が分けられていた。さらに奥に進んでいくと…。

安西陽太記者
「下に通じる道もありますね」

海上自衛隊佐世保地方総監部 中村祐一広報推進室長
「これは地下2階で、当時、通信施設と兵隊さんの休む場所、レストルーム。食堂があったといわれています」

安西陽太記者
「これは行けるんですか?」

海上自衛隊佐世保地方総監部 中村祐一広報推進室長
「きょうは特別に」

 地下2階がメディアに公開されるのは今回が初となる。10メートルほど階段で下っていくと…。

安西陽太記者
「結構、水の音がしますね」

海上自衛隊佐世保地方総監部 中村祐一広報推進室長
「雨が降ると、地下水が漏れて」

安西陽太記者
「地下水なんですか。所々、これは何ですか?」

海上自衛隊佐世保地方総監部 中村祐一広報推進室長
「こういうところに(通信用の)機械があったといわれています」

 壁に横穴が掘られ、通信用の機器が設置されていたという。また、奥行きに関しては…。

安西陽太記者
「結構、奥まであるんですね。これはどこまで続いているんですか?」

海上自衛隊佐世保地方総監部 中村祐一広報推進室長
「これは正確にはわからずですね。正確にはもう、図面が残されておりません。なのでここから先に行きますと、コンクリートの舗装がないです。もうただの洞窟になってしまっているので、分かりません」

 敵が攻めてきたとき用の脱出路だったのだろうか。突き当りまで行くと、雨水が溢れていてこれ以上進むことができなった。

 今も当時の姿を残し、戦争の記憶を次世代につなぐ遺構となっている地下防空指揮所。

 その一方で、市街地は1000トン以上の焼夷弾が投下され、焼け野原になったという。

旧佐世保空襲犠牲者遺族会 山口廣光元副会長(86)
「6月29日の日には夜、起きれよって言われて絵を描いたんですけど(まるで)外は映画を見ているような。」

 6歳の時に佐世保大空襲を経験した山口さん。元々、佐世保市の中心部に住んでいたが、空襲の1カ月前に、郊外に引っ越し佐世保の街に焼夷(しょうい)弾が落ちるのを見たという。

安西陽太記者
「佐世保の街は何色だったんですか?」

佐世保空襲犠牲者遺族会 山口廣光元副会長
「山の向こうが真っ赤になって…いわゆる炎でしたよね。それで探海灯が灯って焼夷弾が落ちたのはちょっと記憶があります」

 山口さんは、この空襲で親族7人を亡くしたという。

旧佐世保空襲犠牲者遺族会 山口廣光元副会長
「親父の兄弟なんかはもう防空壕に逃げて、じいさんは警防団(空襲から市民を守る団体)の団長だったので、火事になったものを消そうとしていたが、逃げようと思った時には、もう火が回ってしまって、道路に防空壕があったんですが、その中に入って死んどったわけです」

 空襲の2日後、市内にあるおばさんの家に向かった時には…。

旧佐世保空襲犠牲者遺族会 山口廣光元副会長
「このくらいの部屋に、畳の部屋の下に防空壕があったんです。防空壕の中に皆、入って焼け死にです。真っ黒なお骨を1本か2本持って帰ったのを覚えています」

 当時の記憶を今も鮮明に覚えているという山口さん。この時の経験を語り継ぎ、人間は話し合うことで争いを回避できることを伝えたいと話す。

旧佐世保空襲犠牲者遺族会 山口廣光元副会長
「語り継ぐということができるのは人間だけです。語り合って、これはだめだ、これはいいと判断して、そして語り継いで戦いをせんで済むことができるのは人間だけですよということを今の若い人に教えたいですね」

 そんな戦争の記憶を、子どもたちに伝える活動を行っている団体がある。NPO法人「佐世保空襲を語り継ぐ会」は廃校となった小学校の空きスペースに「佐世保空襲資料館」を設け、1500点以上の
戦争に関する資料を展示している。

小学2年生
「おはようございまーす」

 この日、資料館を訪れたのは佐世保市内の小学2年生だ。

 資料館では、市内で見つかった実物の焼夷弾などの資料を実際に触ることができ、子どもたちは焼夷弾を持ち上げるなどして、その硬さや重さなどを実感していた。

小学2年生
「本物の使ったやつ(焼夷弾)を見て、とてもびっくりしました」
「(Q.実際に触ってみてどうだった?)なんか石みたいな感じがして、これが使われたんだなと思うとちょっと怖かったです」

「佐世保空襲を語り継ぐ会」 牛島万紀子事務局長(73)
「(焼夷弾を)持って重量感がありますよね。これが落ちてきたらどう?っていったら、やっぱり子どもたちは『うわー』ていいますよね。それが大事かなと思ってます」

 実際に触れることで戦争の怖さを肌で感じ、平和の大切さを学ぶ場所となっている。

 一方で、世界情勢の悪化が佐世保基地の重要性を再び高めている。

安西陽太記者
「佐世保基地には、北朝鮮のミサイル対応などにあたるイージス艦を含む護衛艦が海上自衛隊の基地の中で最も多く配備されていて、西の最大拠点となっています」

 国際的な安全保障環境が厳しさを増すなか、佐世保基地は眼下に東シナ海を望み、南シナ海へと通じる国際海峡に最も近く、日本の海上防衛の最前線となっている。

 そのため、佐世保基地は最多の護衛艦の拠点となっていて“西の護り”の要となっている。取材中にも…。

安西陽太記者
「潜水艦を捜索などするための哨戒ヘリが海外の訓練に参加するため、護衛艦のいせに着艦します」

 今後の戦争被害を作り出さないため、現在の海上自衛隊佐世保地方総監部は住民への理解を訴えている。

海上自衛隊 佐世保地方総監部 福田達也総監
「佐世保地方隊では“西海の護り”の強化に努めています。佐世保地方隊の諸活動に際し、理解し支えていただく地域社会との関係は極めて重要です。『地域の皆様とともに』をモットーに、『地域社会との連携』を強化していくことも我々にとって重要な任務であり、管轄する各県の皆様に愛され、そして信頼される部隊を作り上げ、『地域社会との連携』の強化に努めたいと思っています」

 佐世保大空襲から80年。今、山口さんは日本の防衛最前線となっている佐世保の状況をどう見ているのか。

旧佐世保空襲犠牲者遺族会 山口廣光元副会長
「佐世保は軍港都市です。どこが相手となっても佐世保は初めに攻撃を受けると思います。今の小学校、中学校、高校、大学生あたりが戦争はこういう状態で、こういうマイナスがあるから、戦争して得することはないんだからやめましょうっていう勇気を彼らに持ってもらいたいですね。持ってもらうためには自分たちも何かをしなきゃいけないわけですね」

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