あの日の日記アーカイブ

あの日の日記 2011年3月17日

先日から日を追って、

震災当時に書いていた日記をこちらに載せています。

拙い走り書きのようなものですが、

二度とこのようなことが起きないよう願いを込めて掲載します。

当時の状況をお伝えするのに、なるべく加筆・訂正などはせずに、そのまま載せています。

あくまで、あの日あの時、私が経験したこと、感じたことです。

ご了解いただけると幸いです。

(アナウンサー以外の個人名は、プライバシーを考慮してイニシャル表記にします)

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2011年3月17日

朝ごはんは温かいロールキャベツだった。

お礼を言って会社に向かう。

朝勤務の猪俣ちゃんを会社で降ろし、帰宅。

部屋を片付けていると、母から電話。

福島に今日来るという。

私の会社に電話し、H部長にも、いったん娘を連れて帰りたいと話したらしい。

突然の母の行動に面食らう。

どうすればいいのかもう分からない。

テレビをつけると、第一原発3号機でヘリからの放水の様子。

色々考えていると片付けが進まないので、会社に向かうことにした。

午前11時、会社の前でばったりH部長のご家族に会う。

奥さんと息子さんだ。

「本当に大変なことになって・・」と奥さん。

Hさんは一度も休まず、ずっと会社にいる。

ご家族もどれほど心配していることだろう。

会社でHさんと話す。母から電話がかかってきたと言われた。

どうするかはよく考えなさいとのこと。

とりあえずJチャンネルに集中したいので、終わってから考えますと答える。

午後。今日は各避難所で足りていないもの、

救援物資の受付場所などの情報をまとめるため、各所に電話をかける。

いま、各避難所で足りていないもの。

粉ミルク、哺乳瓶、歯ブラシ、歯磨き粉、紙コップ、紙皿、割り箸、おむつ、

赤ちゃん用おしりふき、ボックスティッシュ、トイレットペーパー、

マスク、 生理用品、携帯用カイロ、缶詰やカップめんなど日持ちのする食料

医薬品、タオル、ポリタンク・・・

でも一番はどこも燃料だという。 燃料。いったいどこにあるのだろう。

報道フロアも豊富にあった飲み物が少なくなってきた。

節約しながら飲まなければ。

Jチャンネル18時台OA。

番組終わり、編成のAさんのところへ。

ご両親に預けた子どもたちと、一日一回ファックス通信をすることにしたらしい。

HちゃんとKくんの絵を嬉しそうに見せてくれた。

Kくんの絵はお父さんとお母さんが描かれている。

お母さんの方は画用紙の半分くらいを占めているのに、お父さんはやけに小さい。

これは家庭内の力関係を表しているとみんなで笑う。

こんな状況でも「笑い」ってある。

避難所でもきっと子供たちは笑っているんだろうなと思う。

原発事故さえなければ、そういう笑顔を放送することもできるのにと思う。

会社からの帰り道、ガソリンスタンドに長い車の列。

明日、オープンするという情報があったのだが、

あれは本当なんだろうか。デマだったこともあった。

どうしてもガソリンを入れたいと言っていた猪俣ちゃんに電話して教えてあげる。

22時、帰宅。

家に灯りがついている。母が迎えてくれた。

朝の電話でこちらに来るとは言ってはいたが、

まさか本当に香川から来るとは思わなかった。

新幹線は動いておらず、臨時の羽田~福島の飛行機で来た

部屋を少し片付けてくれていた。

会った途端また、明日帰ろうといわれる。

それは無理。こんな大変な状況下で、どうして帰ることができるんだろう。

普通に暮らしている人がいるのに。

母は言う。香川は平和よ。サッカーしてる子供たちの笑い声が聞こえて、

沈丁花のかおりがして。腹が立つくらい平和よ。

その情景が目に浮かぶ。

福島も、つい一週間前まではそうだった。

帰っておいで。

帰らない。

どこまでも平行線だった。

明日も早いのでひとまず寝ることにする。

午前1時前就寝。

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