うっちーの男を磨け!

終戦から74年...信夫山にあった地下工場

2019.08.15

きょうは終戦の日です。

県内にも暗い影を落とした太平洋戦争の記憶をお伝えするため、戦時中、戦闘機の地下工場があった信夫山を取材しました。

信夫山は、市のシンボルとして、多くの人に親しまれていますが

戦時中、戦闘機を作る地下工場があった事は、ほとんど知られていません。

信夫山の中腹。険しい山道を進むと、地下工場の入り口が見えてきます。

こちらは、工場の断面図。地面と平行に三本の坑道が伸びていて、その穴をつなぐ竪穴も掘られています。

信夫山は明治時代、金を採取していて、工場はその坑道を拡げて作られました。

地下工場の存在は、長く明らかにされていませんでしたが、

約30年前、福島東高校の歴史部が調査し、その内容を冊子にまとめました。

調査の様子を撮影した貴重な映像が残っています。

坑道を進むと、途中、大きな空間が広がります。

生徒が10数人が入れる広さとなっています。

工場の中は、トロッコのレールはひかれていたとみられ、枕木の跡も、残っています。

さらに、工場はもう1か所。信夫山の西側にも作られました。

第1工場と第2工場に分かれ、坑道が碁盤の目のように張り巡らされた巨大な地下工場となっています。

この地下工場、戦時中空襲を免れるための工場疎開が理由で、信夫山に作られました。

群馬県の実業家・中島知久平が立ち上げた中島飛行機。

戦前から国内有数の航空機メーカーとして発展し、戦時中は、日本軍の主力戦闘機「隼」を製造するなど、数多くの航空機を製造していました。

しかし、1944年、東京・武蔵野市にあった主力工場が爆撃を受けます。

日本軍は、空襲を受けても被害が少ない地下工場の建設を指示。

東京の八王子や栃木県の宇都宮と共に、信夫山が工場の疎開先に決まりました。

当時、戦闘機を輸送するのに鉄道を利用していて、鉄道沿線にあって町の中心部に近い所に信夫山があったことなどから、この場所に地下工場が作られたとみられています。

1945年の春。いよいよ工場の建設がスタート。

しかし、まさに工場建設の中、終戦を迎え、工場の計画は中止となります。

ここで生産された戦闘機はわずか1機に終わったといいます。

戦後、中島飛行機は解体。従業員たちは、その技術を自動車製造などに生かし、「スバル」などの自動車メーカーが誕生しました。

信夫山に今の残る戦争の爪あと。暗い影を落とした戦争の記憶を静かに伝えています。

※地下工場の跡地は過去、中に入った小学生が転落し命を落とすなどしていて、現在、入り口はコンクリートで封鎖されています。

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